かめ塚古墳とサッペ講

 岩沼駅から電車に乗り、仙台に向かって踏み切りを二つ過ぎた頃、西方の田んぼの中に小山を眺めることができる。
 これが「かめ塚古墳」である。この高塚古墳は全長39.5メートル、前方部幅10.3メートル、後円部径が16.3メートル、後円部の高さが2.45メートルの前方後円墳である。墳丘上には段がなく、その表面はなだらかなカーブになっている。形が整っていて美しく昭和25年9月28日県の文化財に指定された。
 この古墳は未発掘のため、内部の構造や周湟(しゅうこう)については明らかでなく、葺石(ふきいし)とか、埴輪(はにわ)等も発見されていない。
 墳丘上から須恵器蓋の破片を表面採集しているが、表採品のため、残念ながら年代を決定する遺物とはなっていない。
 かめ塚古墳の北東方約3.5キロメートルの丘陵上に立地する国史跡である雷神山古墳(全長168メートル東北地方最大規模、前方後円墳) は五世紀に周辺を支配した豪族の首長の墓として築造されたと考えられており、かめ塚古墳もこの時期につくられた一つと言われている。いずれ発掘調査が実施されれば築造年代の手がかりがつかめるものと思われる。
 このかめ塚古墳を中心にして、旧北の町(中央四丁目)には、「サッペ講」という講があり、火災祭が旧暦10月25日に行なわれていた。家々では新米でモチをついて、豆腐モチやアンコモチを親類や親しい友人にごちそうし、夕方になって大人も子供もワラをかかえて亀塚に集まり、それで1メートル程の小屋を作って、その中にワラ人形を安置し、お供養をして多宝院様をお願いしてお祭りをし、終わると切火を切って一切のものを焼いたというのである。

 現在も旧習を重んずる人たち、北の町高砂会が中心となって、サッヘ゜講が行われている。平成1年から新の10月25日に行われるようになり、約40人以上集まってサッペ講を実施している。

 サッペ講のいわれについては、次のように伝えられている。藩公の側室を賜った岩沼館主はその方が気に入らず、鈎取に別荘を作って住まわせていたが、ある時、側室がお付きの侍の三平(三瓶氏ともいう)に土蔵に大切な書類を取ってくるように申し付け、岩沼につかわした。しかし、その夜に失火があり、三平はようやく書類を探しあてたが、煙に巻かれてしまった。そこで割腹してその書類を傷口におし入れて、守りぬいて焼死したということである。後世になって伝え聞いた人々があわれんで、かめ塚の上で三瓶に似せて作ったワラ人形を供養して燃やした。
 これがサッペ講が火災祭りであるゆえんだという。当時の失火の記事がないこと、庚申塚の前で祭事をしていたというが、塚上には山神塔(寛延3年10月吉日建立)があり、庚申様は火防神でないということなどいくつかの疑問が残るが、佐々木喜一郎氏の考えによると、北の町サッペ講もやはり以前は作神祭で、新藁を燃やすという「浄めの行事」から思いついて発展していったものではないかということである。
 また、この古墳を掘ると火事が起こるという伝承が旧北の町にあるが、サッペ講の火防祭にまつわるものと考えられる。
 江戸時代からの伝承にかかわる「かめ塚」は、実は今から約千五百年も前にこのあたりを治めていた豪族の墓である。
 かめ塚古墳に死者が葬られて数十年、百年位までは、その人物の業績も語り継がれていたが、次第に人々の記憶も薄れてしまったものと思われる。
 しかし、あばいてはならない聖域という意識のみが残り、それがサッペ講とも結びついて、なお一層掘り起こしてはならない場所である、という考えに至ったものと思われる。
 遠い昔から考古学的遺物と共にロマンの詰め込まれて来た「かめ塚古墳」をいつまでも大事に保存していきたいものである。

          【情報提供者   岩沼市文化財保護委員 千葉宗久氏】